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僕と君と明日のつづき
四畳半ダンディズム
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細川又三良
(ほそかわ・またさぶろう)
1972年愛知県生まれ、男性。

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026.『奇跡と幽霊は失せてなお、僕を悩ませる』
Date: 2004.0107
 付き合う女性にはできれば香水の類は付けて欲しくないと思ってしまう僕は、恋について不器用で臆病者で後ろ向きなネガティブ人間なんだろうか。
「まさか、又三良さんがそんなことを言うと思わなかった」
と、でも言う人もいるだろうけど、僕は同時に複数の女性と付き合えるほど器用じゃないし、今の恋が終わったら「ハイ、次、次!」と言えるほど、気持ちの切替は上手じゃない。
  そう、彼女の左手首から漂った香りは一瞬にして僕をKOした。
 
  彼女の部屋でたっぷりと愛し合った後、さて、お腹でも空いたから、外で食事がてら飲みに行こうよ、と着替えて部屋を出ようとする時、
「どの匂いが好き?」
と、彼女は香水を左手首の辺りにちょんと軽めにつけて、僕の鼻先に掲げて匂いを嗅がせた。
  その瞬間――脳の奥底に封印していたはずの記憶がどっと溢れ出てきた。嗅覚が呼び起こす記憶の波、次々にイメージが蘇ってきて、僕は整えたばかりのベッドに再び倒れ込んだ。
「ど、どうしたの?」
  慌てて僕の様子を見る彼女。
  はーふーはーふー、と大きく息を吐いて、瞬きを二、三回してから、すっくと上半身を起こす。そんなに深刻なことじゃないから、と言わんばかりに笑ってみせる。
「もしかして、この匂い苦手?」
「ん、そうじゃなくて……」
 続く言葉を言おうとして躊躇う。彼女と付き合ったばかりでまだ日が浅かった。男が女性用の香水を語るならば、過去の女性とのエピソードがセットになってしまうのは避けようもなかった。
  正直に語るべきが、適当に誤魔化すべきか、判断に迷ってしまう。
「ええっと……」
「あ、そっか……この匂い、わかっちゃうんだ」
「ははは、うん、そう、奇跡だ、ミラクル」
  あはっ、と声に出して笑う彼女。
「あ、又さん、知らないんだ。これ、ミラクルじゃなくて、フランス語だからミラクって言うんだよ」
  いや、知らないのではなく、知らなかったのだ。
  普段、自分が身に付けない香水の名前を覚えていた理由。
「へえ、ランコムのミラクルって言うんだ?」
「ううん、フランス語だからミラク、わかった?」――と、僕は過去に同じ会話をしたことがあったのだ。その会話がどこか印象的で、僕はこの香水の名前を記憶に残していた。
  以前、付き合っていた女性の香り。
  キスをした後、首筋に唇を這わせた時に香った甘い記憶、駅の改札口で別れ、手に残った残り香に切なくなったデートの帰り、忘れていた記憶がワンシーン毎に甦ってくる。
  その元カノは僕とつき合っているのに関わらず、別の男性と出会って僕の元から去っていった。きっぱりと別れることができたから、恨み辛みなどは一切残っていないけど――なぜか、大好きだった頃の気持ちが蘇ってくる。
 
「ごめんね、そういうわけ……」
「ふうむ」
「別に気にしないで、未練があるわけじゃないし、ミラクの記憶だってさ、君が全部塗り替えてくれれば……」
「いい。これはやめとく」
  彼女は香水のボトルを激しく棚に戻した。その衝撃でボーリングのピンのように周りのコスメ用品が倒れていった。機嫌を損ねたかな、と思って、別の香水を付けることを薦める。
  記憶はなかなか消えないものだけど、僕たちは過去ではなく、現在と未来を生きていくのだから、新しい香りの記憶を僕に与えてくれればいいじゃない、と、僕の気持ちが伝わるようにゆっくりと説得する。
  気を取り直して、彼女はんー、と鼻を鳴らしながら長細いボトルを手に取った。付ける前に、じっと僕の目を見た。そして、ボトルの先を差し出した。
  なるほどね、念のために確認しろ、と言うことか。
  鼻を近づけ、くんと鼻を鳴らした直後、
「うはっぅ!」
と、僕はまたもやベッドに倒れ込んだ。
「えええ、もしかして……これもそう?」
「あー、うん。幽霊でしょ?」
「ゆうれい?」
「ゴースト」
「あはは、そうそう、よくわかったね……って、なんだよーもう」
  彼女は怒って僕にボトルを投げつけた。床に落とさないように慌てて右手で受け取って、元の場所に戻すが――手を鼻に近づけると、ああ、やっぱりゴーストの香り。しまった、香水の匂いってなかなか取れないんだよなーと後悔する。
  今日一日、今の彼女がいる隣で、手に漂う匂いがする度に、別れた女性を思い出すのは不幸な事に違いない。
  洗面所に行って石鹸で手を洗った僕に、冷たい声で彼女が訊いた。
「今度はどんなエピソード?」
「え? んっと、ゴーストと聞いて、幽霊なんて何かホラーな名前だなって思って憶えてる」
「あっそ……もういいよ。何も付けないで行くから」
と彼女はむくれたまま玄関に向かった。
 
  匂いの記憶はダイレクトに脳に伝わって、有無を言わさず封印した記憶の箱を次々に開けていく。特に香水は何よりも彼女たちの肌に近いもの。だから、一瞬のうちに鉄壁のディフェンスを切り裂くようなキラーパスのように、皮膚感覚で忘れていた甘い愛の気持ちさえも甦らせてしまう。
  まったく、奇跡と幽霊は失せてなお、僕を悩ませる。
 
――後日談。僕と彼女はあるショップで香水売り場を歩いていた。
「じゃあ、これなんか、どう?」
「へえ、かわいいボトル」
「前に流行ってた香水。すっごく甘い香りがするの」
  赤いハート型のボトルを手にして、彼女に訊く。
「なんて、名前なの?」
「ん、エンジェルハート」
  天使の心か……と胸の内で呟いて、その直後、全身に鳥肌が立った。天使の心なんて名乗りながら、絶対に、後で僕を苦しめるに違いないから。

 (了)
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